創始者挨拶

創始者ほしよみ堂主宰中島多加仁

雷門から徒歩1分、駅のA4出口から10秒足らずの好立地に『浅草ほしよみ堂』が誕生しました。

浅草寺の歴史は今から約1400年前にさかのぼります。
浅草寺のはじまりは、628年ですから推古天皇36年。
隅田川で漁師をしていたある兄弟が、いつものように川に網を打っていると、その網のなかから仏像が出てきました。
二人は仏像を川へ返しましたが、何度も網に仏像が入ってくるので持ち帰って土地の長(おさ)に見てもらいました。
その仏像は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)だと分かり、翌日にお祀りしました。
それから幾年を経て645年(大化元年)、勝海上人が立派な観音堂を作りました。
平安時代になって比叡山の円仁が来訪されて、開山したわけです。
それから浅草寺は、日本の聖地として発展しました。
1079年に火災で炎上したとき「本尊が西方の榎の木に自ら避難した」との故事が伝わっています。
また1169年の再建では、聖観音の秘法で大雨が降り注ぎ、その勢いで山が伐採されて材木が隅田湖畔に流れ着き、
用材を確保したといわれています。
これらの霊験を聞いた源義朝は、浅草寺に観音像を奉納したのです。
義朝の子である源頼朝も、平家討伐の際に浅草寺で勝利祈願し、戦勝のお礼として田園を寄進しています。
頼朝を尊敬していた徳川家康は関ヶ原の戦いの前に浅草寺で祈祷し、
見事に勝利をおさめたことで浅草寺の霊験が全国に広まりました。
江戸時代になると行楽が盛んになって繁華街が生まれ、茶屋や見世物小屋が並び、多くの興行が行われたのです。

じつは、浅草寺から丑寅の方角である北東に、隠れたパワースポットがあります。
それが、待乳山聖天(まつちやましょうてん)です。
正式名称は本龍院。
西暦601年に建立された寺院で、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)を祀っています。
かつて飢えで苦しむ浅草の住民を大聖歓喜天が救った、という歴史があります。
今の浅草の発展は、歓喜天の力によるものだと思われます。
この歓喜天はインドの神様でガネーシャとして知られています。
一般的に『聖天(しょうてん)さま』と呼ばれていますが、本来は恐ろしい祟り神なので
軽い気持ちで拝みに行くと、とんでもない災いに見舞われることもあります。
祟りを貰わないためには結界を張ることがたいせつです。
ところで、怨霊とか祟り言えば、真っ先に思い浮かぶのは京都ですよね。
ほしよみ堂は京都にもございます。
2021年12月22日に京都の清水五条に誕生しました。

かの弁慶と牛若丸が対決したとされる五条大橋(実際の史実とは異なる)のすぐそばです。

浅草って、京都の四条河原町に雰囲気が似ていますよね。

さらに鎌倉にも開きます。

原宿に本店があって、フランチャイズ1号店が大阪駅第3ビルに誕生し、
さらに札幌駅近く、横浜は元町中華街、
そして続けざまに京都・浅草・鎌倉という観光スポットに出店できた『ほしよみ堂』。

ますます進化していく予感がします。

ほしよみ堂の創始者って、どんな人物?

嵯峨天皇の皇子・源融から数えて28代目。
父母ともに霊験あらたかな術師の家系に生まれた、
精神世界のサラブレッド。

20才のとき大事故を起こし、
それをきっかけに運命論や哲学に目覚め、
霊術修行に入る。

23才で四柱推命と易や風水を学び、
名古屋を中心に東京、京都、広島で
ワークショップを定期開催。

30才、古着屋を数店経営しながら
経営コンサルタント業を始める。

33才の時にある霊能者の導きで
東京の原宿に土地を購入し自社ビルを建設し、
同時にヴィンテージショップを開業。

その後、紫微斗数(しびとすう)をはじめ、
台湾の本格占術の秘伝を次々に習得。
占術専門店『ほしよみ堂』を立ち上げ、
プロの占い師を100名以上輩出する。

教えた生徒の数は千人以上。
総鑑定数は2万件を超える。
本名での著書は39冊。

『紫微斗数占い入門』(幻冬舎)
『ちょい足し風水』(扶桑社)
『妊活風水でしあわせになる! 子宝運アップ25のルール』(祥伝社)
『陰陽師カード』(株式会社林武利)
『天津金木占術奥義』(東洋書院)
『四柱推命教本』(ごきげんビジネス出版)
『最短2週間で稼げる占い師になる方法』(ごきげんビジネス出版)
『しあわせになる恋の法則』(宮帯出版)
『紫微斗数タロット占術』(宮帯出版)
『人材に悩む経営者のための占い師が答える31の助言』(ファストブック)他。
 
◆得意な占術命術:
紫微斗数、四柱推命、カバラ数秘術卜術:六壬神課
タロット、周易、断易、気学四盤掛
天津金木相術:姓名判断、風水、家相、地相、墓相、名刺相

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