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魂の調律としてのジャーナリング ――言葉にすることで、自分に還る

「なんとなく不安なんです」

そんなご相談を受けることがあります。

何か大きな問題があるわけではない。

仕事もしている。
人間関係も、それなりにこなしている。
毎日も、普通に過ぎている。

それなのに、

なぜだかわからないけれど、イライラする。

人の成功を見ると焦る。

誰かの何気ない一言に傷つき、そのあとで、そんな自分まで嫌になる。

不安。
怒り。
焦燥。
嫉妬。
寂しさ。
自己嫌悪。

ひとつひとつなら名前をつけられる感情も、いくつも重なってしまうと、やがて大きな「もや」のようになっていきます。

すると、

「何が嫌なのかわからない」

「何をしたいのかわからない」

「なんとなく毎日がつまらない」

「自分に自信がない」

そんな状態になっていく。

私はこれを、ときどき

「慢性自信欠乏症」

のようなものではないかと思っています。

本当に能力がないわけではないのです。

何か大きな失敗をしたわけでもない。

それなのに、自分という人間の輪郭がぼんやりして、足元が定まらない。

生きているはずなのに、どこか自分の人生を生きている実感がない。

そんなときに役に立つのが、ジャーナリングです。

ジャーナリングとは、難しいものではありません。

自分の中に浮かんでいることを、そのまま書いていく。

ただ、それだけです。

上手な文章を書く必要はありません。

誰かに読ませる必要もありません。

正しいことを書く必要さえない。

「腹が立つ」

「怖い」

「羨ましい」

「本当は行きたくない」

「認めてほしい」

「もう疲れた」

そんな、普段なら人には見せたくない言葉まで、いったん紙の上に出してみる。

すると、不思議なことが起こります。

それまで正体のわからなかった「もや」に、少しずつ輪郭が生まれてくるのです。

感情というものは、心の中だけにあるときには、とても大きく見えます。

けれど言葉にしてみると、

「ああ、私は怒っていたんだ」

「怒っていると思っていたけれど、本当は寂しかったんだ」

「相手が嫌いなのではなく、評価されなかったことが悔しかったんだ」

と、その実態が見えてくる。

正体のわからないものほど、人は不安になるものです。

昔から、

「彼を知り己を知れば、百戦殆うからず」

と言います。

相手を知ることも大切ですが、

自分の内側で何が起こっているのかを知ることも、同じくらい大切なのだと思います。

自分は何を怖がっているのか。

何に傷ついたのか。

本当は何を望んでいるのか。

なぜ、こんなに焦っているのか。

それがわかるだけで、感情に振り回される度合いは、ずいぶん変わります。

ジャーナリングとは、感情を消すためのものではありません。

怒らなくなるためでも、

嫉妬しない人間になるためでも、

いつも前向きな人間になるためでもない。

むしろ逆です。

そこにある感情を、

「ある」

と認める。

そして、その感情に言葉という器を与えてやる。

それだけで、暴れていた感情が、自分の中のひとつの声として座る場所を見つけます。

「魂の調律」をするわけです。

私たちの中には、感情があります。

そして、言葉があります。

さらに、行動があります。

けれど、この三つは放っておくと、案外簡単に離れていきます。

腹では怒っているのに、

「ぜんぜん気にしていません」

と言う。

本当は休みたいのに、

「大丈夫です」

と言って仕事を引き受ける。

「自分らしく生きたい」と言いながら、

毎日、人の顔色ばかり見ている。

感情と、言葉と、行動。

この三つの距離が少しずつ開いていく。

私は、人が自分を見失うとき、その背景にはこうした「内側と外側のずれ」があることも少なくないのではないかと思っています。

だから、書くのです。

「私は、本当はどう感じているのだろう」

「私は、何と言っているだろう」

「そして実際には、何をしているだろう」

紙の上で三つを並べてみる。

すると、

感情では「嫌だ」と言っている。

言葉では「大丈夫」と言っている。

行動では、さらに仕事を引き受けている。

そんな自分の姿が見えてくることがあります。

もしかすると、

自信がないのではないのかもしれません。

自分の内側と外側が食い違っているから、自分を信用できなくなっている。

そんなこともあるのです。

自信とは、自分を大きく見せることではないと思います。

自分が感じていることを知る。

自分が口にしている言葉を知る。

自分が実際に取っている行動を知る。

そして、その三つが少しずつ一致していく。

その積み重ねが、

「私は私を信じていい」

という感覚につながっていくのではないでしょうか。

実は、自分の心を言葉にするという営みは、決して現代に始まったものではありません。

日本には古くから、心を「歌」にする文化がありました。

『万葉集』を開けば、そこにいるのは有名な貴族や歌人だけではありません。

東国で暮らした人々の歌があり、

防人として遠く故郷を離れた人々の歌があります。

恋しい人を思う歌。

家族との別れを嘆く歌。

遠い土地へ向かう心細さを詠んだ歌。

もちろん、当時の人々がみな自分で文字を書いていたわけではありません。

声にして詠まれたものが、人を介して記録された歌もあったでしょう。

それでも残ったのです。

千年以上の時を越えて、

「あの人に会いたい」

「故郷へ帰りたい」

「別れるのがつらい」

という、人間の生々しい心が。

私は、ここにとても大切なことがあると思っています。

昔の人もまた、

悲しいときに歌った。

恋しいときに歌った。

どうしようもない思いを、言葉にした。

感情を抱えたまま沈黙するのではなく、

五七五七七という器の中へ入れた。

そうすることで、自分の心を見つめ、

あるいは誰かに手渡し、

自分自身を保とうとしたのではないでしょうか。

考えてみれば、

和歌とジャーナリングは、ずいぶん似ています。

心の中にある、まだ名前のないものに、

言葉という形を与える。

形を与えることで、

少しだけ自分の外側から眺められるようになる。

そして、

「ああ、私はこう感じていたのか」

と、自分自身に出会い直す。

言葉には、そんな力があります。

苦しいときこそ、書いてみる。

整ってから書くのではありません。

整っていないから、書くのです。

立派なことを書かなくていい。

前向きな結論などなくてもいい。

「腹が立つ」

でもいい。

「羨ましい」

でもいい。

「もう嫌だ」

でもいい。

それが今の自分なら、まずそこから始めればいい。

言葉にすると、感情に輪郭が生まれます。

輪郭が生まれると、自分と感情との間に、ほんの少し空間ができます。

その空間ができて初めて、

「では、私はどうしたいのだろう」

と考えられるようになります。

感情を言葉にする。

言葉を行動につなげる。

行動した自分を、また言葉で振り返る。

そうやって、

感情と、言葉と、行動を、

少しずつ合わせていく。

毎日少しずつ、

自分という楽器の音を合わせていくように。

魂は、目には見えません。

だからこそ、

書くことで確かめる。

今日、私は何を感じたのか。

何に傷ついたのか。

何を喜んだのか。

本当は何を望んでいるのか。

その声を、なかったことにしない。

ジャーナリングとは、

「素敵な自分になるため」のものではないのかもしれません。

むしろ、

今ここにいる自分を、置き去りにしないための営み。

なのだと思います。

そして鑑定でも、同じようなことが起こります。

「仕事が嫌なのだと思っていた」

「相手に腹が立っているのだと思っていた」

「自信がないのだと思っていた」

けれど、命盤やカードを通して少し深く見ていくと、

その奥に、まったく別の思いが隠れていたことに気づくことがあります。

人は、自分のことだからこそ、見えなくなることがあります。

今、自分が何に迷っているのか。

なぜ同じことで何度も苦しくなるのか。

本当は、これからどう生きたいのか。

もし、自分ひとりでは言葉にならないものを抱えているなら、

一度、ご自身の内側を静かに見つめてみるのもよいかもしれません。

古代の人々が、切実な思いを歌に託したように、

私たちもまた、

日々の感情を言葉にしていく。

書くことによって、

散らばっていた自分を拾い集める。

そして、

感情と、言葉と、行動を、

もう一度ひとつの場所へ戻していく。

それが、

魂の調律としてのジャーナリングです。

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