50代から、人はもう一度花開く ――『風姿花伝』と、魂が目覚める「思秋期」
「思秋期」という言葉があります。
思春期が、子どもから大人へ移っていく心の揺らぐ季節だとすれば、
思秋期は、
人生の前半から後半へと移っていく、もう一つの揺らぎの季節
なのかもしれません。
40代、50代になると、若い頃にはあまり考えなかったことが、急に現実味を帯びてきます。
以前ほど無理がきかなくなった身体。
変わっていく容姿。
親の老い。
子どもの独立。
仕事上の立場の変化。
そして、
「自分の人生には、あとどれくらい時間があるのだろう」
という感覚。
人生の終わりは、まだずっと先かもしれない。
それでも、
人生には限りがある
ということが、若い頃よりはっきりと感じられるようになります。
そのため、この時期には、
衰えていく肉体への戸惑い。
これから先への不安。
自分は何をしてきたのだろうという焦り。
そんな感情が、思いがけず強く出てくることがあります。
けれど私は、
この時期を単なる「衰えの始まり」と見るのは、とてももったいないと思っています。
なぜなら、ここから人は、
若さとはまったく別の花を咲かせ始める
からです。
思春期に目覚めるのが「性」なら、思秋期に目覚めるのは「魂」
思春期には、身体が大きく変化します。
自分でも扱いきれない感情が生まれ、
人を好きになったり、
自分とは何者なのかと悩んだり、
親から離れ、自分自身の人生を生きようとし始めます。
では、思秋期には何が起きるのでしょう。
今度は、
人生そのものを問い直すこと
が始まります。
私はこれまで、何のために生きてきたのだろう。
本当にやりたかったことは何だったのだろう。
誰かの期待に応えるためではなく、
私は、これからどう生きたいのだろう。
若い頃は、
進学。
就職。
結婚。
子育て。
仕事。
家。
収入。
社会的な評価。
そんな外側の目標を追いかけながら、前へ前へ進んでいきます。
けれど人生の後半になると、ふと立ち止まる瞬間がやってきます。
そして今度は、
「何を持っているか」ではなく、
「私は誰なのか」
という問いが始まる。
もし思春期に目覚めるものを「性」と呼ぶなら、
思秋期に目覚めるものは、
「魂」なのかもしれません。
『風姿花伝』が語る「若さの花」
このことを考えるとき、私は世阿弥の『風姿花伝』を思い出します。
『風姿花伝』には、
人間の芸が、年齢とともにどのように変わっていくのかが書かれています。
若い頃には、若いというだけで人を惹きつけるものがあります。
美しい姿。
澄んだ声。
勢い。
身体能力。
新鮮さ。
それは、とても美しい。
けれど世阿弥は、
そうした若さゆえに咲く花を、
「時分の花」
として捉えました。
その時、その年齢だからこそ咲く花です。
ところが問題は、
その花を、
「これこそが自分の本当の力だ」
と思ってしまうことです。
なぜなら、
時分の花は、いつか散るからです。
若さは永遠には続きません。
身体は変わる。
声も変わる。
容姿も変わる。
若い頃と同じようには動けなくなります。
そこで、
「昔はもっとできたのに」
「若い頃はもっと元気だった」
「以前なら、こんなことは簡単だった」
と、
失ったものばかりを数え始める。
けれど、それではあまりにも惜しい。
なぜなら、
伝統芸能の世界を見ていると、
本当に息を呑むような世界は、
むしろその先にあるからです。
50代以降に現れる、言葉にならない「花」
若い演者の舞台には、華があります。
身体がよく動く。
声がよく出る。
勢いがある。
技術も鮮やかです。
けれど、長い年月を重ねた演者の舞台には、
それとはまったく違うものがあります。
ただ立っている。
ほんの少し手を動かす。
一声発する。
それだけなのに、
場の空気が変わる。
若い頃なら十の動きで表現していたものを、
たった一つの動きで伝えてしまう。
上手い、という言葉だけでは足りない。
美しい、という言葉でも足りない。
その人が生きてきた年月そのものが、そこに現れている。
そんな瞬間があります。
そして私は、
人間には、
歳を重ねなければ辿り着けない領域があるのだ
と思うのです。
老木に咲く花
『風姿花伝』には、世阿弥の父・観阿弥の晩年の芸について印象的な記述があります。
若い頃のように自由に動くことはできない。
できることも少なくなる。
枝葉は減っていく。
けれど、それでも、
花は残っている。
それはまるで、
年月を重ねた老木に、なお花が咲いているような姿です。
私はこのイメージがとても好きです。
若木には若木の美しさがあります。
まっすぐ伸びる力。
みずみずしい葉。
勢いよく広がる枝。
けれど、老木には老木にしかない美しさがある。
風雪を受けた幹。
曲がった枝。
深く地中へ張った根。
そして、
長い年月を生き抜いてきた木に咲く、一輪の花。
そこには、
若さとは違う美しさがあります。
失うことは、ただ減ることではない
人生後半になると、
「失うもの」が目につきやすくなります。
体力。
若さ。
容姿。
役職。
子育てという役割。
親。
そしていつかは、さまざまなものを手放していくことになる。
だから私たちは、
老いることを、
人生が少しずつ小さくなっていくこと
のように感じてしまいます。
けれど、別の見方もできます。
余計なものが少しずつ落ちていくからこそ、
最後に何が残るのかが見えてくる。
若さがなくなっても残るもの。
肩書がなくなっても残るもの。
誰かから評価されなくても残るもの。
それこそが、
その人自身なのかもしれません。
思秋期とは、
人生から何かを奪われていく季節ではなく、
自分という人間の輪郭が、少しずつはっきりしてくる季節
とも言えるのではないでしょうか。
秋は、衰退の季節ではなく「実りの季節」
「秋」という言葉には、どこか寂しさがあります。
葉が落ちる。
日が短くなる。
冬が近づいてくる。
けれど忘れてはいけないのは、
秋は、
実りの季節でもある
ということです。
春に芽を出し、
夏に伸び、
長い時間をかけて育ててきたものを、
秋になってようやく収穫する。
人生も同じなのかもしれません。
若い頃に経験したこと。
失敗したこと。
傷ついたこと。
愛したこと。
別れたこと。
仕事で学んだこと。
誰かを育てたこと。
誰かに育ててもらったこと。
そうした一つひとつが、
長い時間を経て、
人生後半になってようやく、
その人だけの知恵へと変わっていく。
だから、40代、50代以降を、
「若さを失っていく時間」
だけにしてしまうのは、あまりにも惜しいのです。
ここからは、
若い頃とは別の意味で、
人生が面白くなっていく。
人生後半に必要なのは、「若さを取り戻すこと」ではない
世の中には、
若々しく。
いつまでも若く。
老けないように。
という言葉が溢れています。
もちろん、健康でありたいと思うことも、
美しくありたいと思うことも、
とても自然なことです。
けれど、
人生後半の価値まで、
若さを基準に測る必要はないと思います。
若い頃と同じ身体を取り戻すことだけが、
人生後半の目標ではありません。
むしろ、
若さが去ったあとに、自分には何が残るのか。
そこからが、本当の面白さなのではないでしょうか。
経験。
洞察。
人を見る目。
自分を知る力。
物事を待てる力。
余計なことをしない力。
そして、
言葉にならないものを感じ取る力。
そうしたものは、
若さとは交換できない財産です。
思秋期こそ、自分の人生を見つめてみる
もし今、
「このままでいいのだろうか」
「これから何をして生きていこう」
「私の人生は、これで良かったのだろうか」
と感じているなら、
それは人生がおかしくなったのではなく、
人生の問いが変わり始めた
のかもしれません。
そんなときこそ、
一度立ち止まって、
自分の人生を振り返ってみる。
私は何を大切にしてきたのか。
本当は何が好きだったのか。
何を我慢してきたのか。
誰の期待を生きてきたのか。
そして、
これからの時間を、私はどう生きたいのか。
占いもまた、こうした問いに向き合うための一つの鏡です。
紫微斗数の命盤を見ていると、
「自分にはこんな性質があったのか」
「だから、ここで何度も苦しくなっていたのか」
「本当は、こちらの道を大切にしたかったのかもしれない」
と、
今までとは違う角度から人生が見えてくることがあります。
未来を当てることだけが、占いではありません。
人生の折り返し地点で、
自分は何者なのかを、もう一度知り直すこと。
それもまた、占いの大切な役割なのだと思っています。
思春期に目覚めるのが「性」なら、
思秋期に目覚めるのは「魂」。
人生の秋は、
終わりへ向かうだけの季節ではありません。
春と夏を生き抜いた人にだけ訪れる、
豊かな実りの季節です。
そしてその先には、
若い頃には咲かせることのできなかった、
その人だけの「まことの花」
が待っているのかもしれません。

