「はた楽」から「労働」へ――いつから仕事は、人生を削るものになったのか
「できれば、働きたくない」
そんな言葉を聞くことがあります。
早くお金を貯めてFIREしたい。
会社を辞めたい。
十分なお金さえあれば、もう働かなくていいのに。
仕事のご相談でも、
「もう会社に行きたくありません」
「あと何年、これを続ければいいのでしょう」
「生活のためだから仕方なく働いています」
というお話をよく伺います。
けれど私は、
人間は本当に「働くこと」そのものが嫌なのだろうか
と思うことがあります。
もしかすると嫌なのは、
働くことではなく、
今の「労働のあり方」なのかもしれません。
日本人にとって「働く」とは何だったのか
日本の神話や祭祀を見ていると、
現代でいう「労働」と、
昔から日本人が営んできた「働く」ということには、
どこか大きな隔たりがあるように感じます。
日本神話には、
「斎庭の稲穂の神勅」
と呼ばれる物語があります。
天照大御神が、天孫へ稲穂を授ける。
そこには、
稲を育てることが単なる食料生産ではなく、
神々から託された世界を営んでいくこと
と深く結びついている姿が見えます。
日本人にとって稲作は、
ただ「食べるために仕方なく働く」ものではありませんでした。
春には田を起こす。
種を蒔く。
苗を育てる。
水を入れる。
田植えをする。
夏には水を見守り、
草を取り、
秋になれば稲を刈る。
そこには、
季節とともに生きる仕事
があります。
稲には、稲の時間がある
現代の仕事では、
朝9時に始まり、
夕方6時になれば終わる。
時間が仕事を区切っています。
けれど稲作では、
時計を見ても稲は育ちません。
「今日は時間があるから、三か月分まとめて育ててしまおう」
ということもできません。
春には春の仕事があり、
夏には夏の仕事があり、
秋には秋の仕事があります。
雨が降る。
太陽が照る。
風が吹く。
ときには台風が来る。
長雨になる。
水害が起きることもある。
人間の都合だけでは、
どうすることもできません。
だから、
自然を自分に従わせるのではなく、
自分のほうが、大きな自然のリズムへ入っていく。
そこに昔の日本人の働き方の一つの姿があったのではないでしょうか。
働くことは「一人で稼ぐこと」でもなかった
そして稲作は、
一人だけでは成り立ちません。
水を引く。
用水路を守る。
田植えをする。
稲を刈る。
同じ土地に暮らす人たちが、
季節を見ながら力を合わせる必要があります。
つまり、
自然とともにあることと、
人とともにあること
がつながっていました。
自分の田んぼだけよければいい、
というわけにはいきません。
上流で水を独占すれば、
下流の田んぼが困ります。
誰かが用水路を管理しなければ、
地域全体が困ります。
働くとは、
自分の生活費を稼ぐだけではなく、
自分の力を共同体へ差し出すこと
でもあったのでしょう。
そこから、
「はたらく」という言葉を、
「傍(はた)を楽にする」
と捉える考え方も生まれました。
これは厳密な語源の説明というより、
働くということを表す、日本人らしい一つの思想として捉えられます。
自分が何かをすることで、
誰かの負担が少し軽くなる。
誰かが喜ぶ。
何かが整う。
何かが育つ。
それが「働く」ということだったのではないでしょうか。
ところが現代では「時間を売る」ようになった
現代の労働には、
特徴的なものがあります。
それは、
時間を売る
という感覚です。
朝9時から夕方6時まで。
週5日。
月160時間。
自分の時間を会社へ差し出し、
その対価として給料を受け取ります。
今日、何を育てたのか。
誰の役に立ったのか。
何を生み出したのか。
それよりも、
「今日は8時間働いた」
ということが基準になります。
すると、
働くことと生きることの間に、
少しずつ溝ができます。
仕事の時間は、
「人生から奪われる時間」
になってしまう。
だから金曜日になるとうれしくなる。
日曜日の夜になると憂鬱になる。
そして、
「早く働かなくていい身分になりたい」
と思う。
それは怠けたいからではなく、
自分の人生を取り戻したい
という願いなのかもしれません。
「労働から解放されたら幸せ」なのだろうか
ただ、ここで一つ考えてみたいことがあります。
もし明日から、
一生働かなくてもいいだけのお金が手に入ったとしたら、
私たちは何をするのでしょう。
旅行へ行く。
買い物をする。
美味しいものを食べる。
動画を見る。
ゲームをする。
趣味を楽しむ。
もちろん、どれも悪いことではありません。
休むことも、
楽しむことも、
人間には必要です。
けれど、
苦しい労働に耐え、
その反動として消費で自分を慰める。
そしてまた働く。
という循環だけになってしまったら、
少し寂しい気がします。
古代ローマには、
「パンとサーカス」
という言葉があります。
食べ物と娯楽が与えられ、
人々がそれを消費している間に、
社会の大切なことへの関心を失っていく。
現代はもちろん古代ローマとは違います。
それでも、
働く主体であることを失った人間が、
ひたすら消費する主体になっていく
というところには、
少し似たものを感じます。
本当に欲しいのは「働かない人生」ではない
だから私は、
FIREが悪いとは思いません。
会社を辞めてもいい。
転職してもいい。
嫌な環境から離れてもいい。
むしろ、
心や身体を壊してまで働き続ける必要などありません。
ただ、
その先で考えてみたいことがあります。
私たちが本当に欲しいのは、
「何もしなくていい人生」
なのでしょうか。
それとも、
「自分の命を、意味を感じられることに使える人生」
なのでしょうか。
この二つは、
似ているようで大きく違います。
料理をつくる。
子どもを育てる。
店を掃除する。
文章を書く。
人を教える。
相談に乗る。
傷ついた人の話を聞く。
誰かを笑顔にする。
そこに、
「自分の働きが誰かにつながっている」
という感覚があれば、
働く時間は、
人生から奪われる時間ではなくなります。
むしろ、
生きている時間そのものになる。
仕事が苦しいときこそ、「何を育てたいのか」を考える
仕事の相談というと、
「辞めたほうがいいですか」
「転職したほうがいいですか」
と聞かれることがあります。
もちろん、
環境そのものを変えたほうがいい場合もあります。
けれど、
その前に一度だけ、
別の問いを持ってみてもいいと思います。
私は、この仕事を通して何を育てたいのだろう。
誰を喜ばせたいのか。
何を社会へ差し出したいのか。
自分のどんな才能を使いたいのか。
今の職場では、それができているのか。
それとも、
時間と引き換えに給料を受け取るだけになってしまっているのか。
そこが分かると、
「辞める・辞めない」
よりもずっと大切なことが見えてきます。
占いも、
未来を決めてもらうためだけのものではありません。
自分が何を大切にしているのか。
どんな環境なら力を発揮できるのか。
本当はどんな人生を生きたいのか。
そうしたことを、
もう一度自分の内側へ問いかけるための鏡にもなります。
働くとは、
ただ時間を売ることではない。
自分の命を使って、この世界へ何かを加えること。
そう考えてみると、
仕事を見る目も少し変わるかもしれません。
私たちが取り戻したいのは、
「もっと働かなければ」という根性論ではありません。
まして、
「つらくても感謝して働きなさい」
という話でもありません。
そうではなく、
自分の命を、何に使いたいのか。
その選択を、
もう一度自分の手に取り戻すこと。
自由とは、
働かなくてよくなることではなく、
自分の働きと、自分の人生が、もう一度つながること
なのかもしれません。

